カテゴリ:・爺の登山小史( 61 )
爺の登山小史 No21
この所、風邪気味で、雪山登山の予定が全てパーになってしまった。嫌味の様に毎日好天が続いて、ストレスの溜まる毎日です。しょうがないので「爺の」でも書くか? と言う事で、1969年になって、会の活動は益々訳のわからん方向へ(俺から見て)向かっていくし、一人で行く雪山と、ゲレンデでの岩登りが唯一楽しみだった。そのころゲレンデでは出雲山岳会の人達と一緒になることが多かった。リーダーはK田氏といって小柄で可愛い(と言ったら失礼だが)青年で、しかし岩登りに対する強い情熱が感じられ、初対面から好印象を持った。
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一方、MCCは市民ハイキングをやる事になって、天狗山の登山道整備や山頂での標識、ベンチ作りなどに駆り出された。本番では、若い男女が大勢参加し(当時山へ行くのは、中高年より若者が多かった。その若者が現在、中高年になって山へ行っているわけだが)、天狗山山頂で、合唱や、宝探し等で盛り上がった。俺はそういう雰囲気に溶け込めない変な奴だったのだろう?蚊帳の外にいる感じだった。それから間もなく1年ほど世話になった会を去った。自由の身になって、先ず最初に考えたのは、俺のリードで再び大屏風岩を登らねば!と言う事だった。新しいパートナーI野氏も見つかってトレーニングに精を出す日々が続いた。
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船上山でのルート開拓。
by kikunobu111 | 2008-03-15 16:14 | ・爺の登山小史
爺の登山小史 No20
当時,大山や出雲の岩場に行った帰りに、時々駅裏のホルモン焼き屋で祝杯をあげていた。俺はその頃、酒が苦手だったので仲間に付き合うという感じだったが。もう一つ大事な寄り道は、米子駅前の「大山山荘」という山用具店だった。小さな店だが一流品を置いていた。店番をしていたのが、「岩友会」という山岳会のK本氏というバリバリのクライマーで、俺はここでモンクレール(仏製)のダウンジャケットを買った。この服は中学生のころ観た「アルピニスト岩壁に登る」というフランスの山岳映画の中で、かのリオネル テレイが着ていたのと同じ品だ。支払いはある時払いという好条件だった。 当時ダウンジャケットなんて誰も着ていなくて、「それは布団で作った服か?」と聞かれたりした。MCCのメンバーに見られるのが恥ずかしくて、一緒に山に行く時は家に置いてた。この店は余りに品揃えがハイレベルすぎたせいか、数年で店を閉じてしまったが。
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 (左)大屏風岩、港ルート第二ハング下トラバース。(右)大山、別山バットレス。
ところで会の活動の方は、アルピニズム路線まっしぐらと言うより、ローカル、ハイキング活動と言った雰囲気になってきた。正月合宿は美保関から日御碕まで島根半島の分水嶺を掻き分けて縦走する事になり、俺は次第に違和感を覚え始めていた。1968年12月31日美保関灯台をスタートし藪コギを続けながら法田峠で一泊。真っ白い大山を眺め、「何でこんな事やってんだ!」とブツブツ言いながら歩いた。元日は降雪の中、枕木山手前の稜線で泊まる。三日目、大雪の中、枕木山頂でM氏等と合流。松江北山を縦走して講武に出て田んぼ道を歩いて朝日山頂で幕営。四日目の朝、起きたら靴がカチカチに凍っていた。結局俺はノルマを終えて一畑山付近で離脱。その後ローカル新聞に縦走の記事が出た。
by kikunobu111 | 2008-03-11 13:24 | ・爺の登山小史
爺の登山小史 No19
前夜から旧元谷小屋に泊まって、早朝大屏風岩へ向かった。対岸の墓場尾根下部(サポート尾根と呼ばれていた)で、島大山岳部のH君がサポートしてくれた。おにぎり岩の下、港ルートの取り付きでM戸氏とロープを結び合う。彼は馴れた動きでハングを越え、テラスに到着。大山特有のフリクションの効かない岩を慎重にフォローする。3ピッチ目で俺がトップに立った。わずかに被った凹角を抜け出た瞬間、頭上で雷の様な音が聞こえ、見上げると青い空一面に胡麻みたいな黒い粒が拡がり、グングン大きくなってくる。
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落石!大声を出して岩に全身を密着させる。無神論者の俺が、この時ばかりは死んだ爺さんの戒名を唱えていた。凹角を抜けて緩傾斜のスラブに出る直前で、もし落石が数分遅かったら当たってたかも?真下の第2テラスで確保していたM氏は動く事も出来ないまま、片足に落石を受けて呻いていた。落石の原因は上部にいたクライマーだった。OCCのK藤氏とH氏が正面カンテの最終ピッチにいた。彼等が誤って落とした岩が丁度真下にいた我々を直撃したのだ。こんな場合勿論、下にいる方が悪いのだが、OCCパーテイは西ルンゼから登ってたので、我々の上に来るとは思わなかった。M氏のダメージも登攀を中止するほどでは無かった。そして港ルートの難所、第2ハングのトラバースに差し掛かる。間隔の遠いハーケンを伝って左にトラバースするのだが、このハーケンが曲者で、全く信用出来ない。そして最期の第3ハング。これは殆ど泥に岩が挟まった様な状態で、アブミに乗ると、ハーケンは今にも抜けそうに震えている。事実上の終了点である「肩」に着いた時はホッとした。慎重にもう1ピッチ伸ばして、ロープを解いた。硬い握手を交わし、心ウキウキと屏風尾根を縦走路に向かう。M氏はビッコを引き引きだ。
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それにしても大山の屏風岩は脆い。それまで登った剣岳や穂高の岩登りとは、異質な物だった。(岩登りと言うか、泥壁登りと言うか?)しかしこの糞壁にその後永らく取り付かれる事になろうとは!★OCC; 岡山クライマーズクラブ。その後、日本を代表する過激社会人山岳会となる。リーダーのK藤氏を中心に、すごいクライマーが揃っていた。黒部奥鐘山西壁、ペルーアンデス、インドのナンダデヴィ、K2等登っている。ここからは、日本のフリークライミングの草分けも出ている。
by kikunobu111 | 2008-03-09 10:59 | ・爺の登山小史
爺の登山小史 No18
岩場や山行きの為に、スズキの50ccカブを買った。こいつは非力ではあるが、大山寺までの坂も良く登ってくれた。空気の匂いを嗅ぎながら走る爽快感は格別で、以後何台バイクを乗り継いだことか?(全て中古だが)
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最期に手に入れたヤマハDT1は真っ赤なタンクで惚れ惚れするデザインだった。ヒマラヤ遠征の資金の足しに売ってしまったが、今でも可能なら又、乗ってみたい。(誰か中古を譲っても良いという人いませんか?)そういえば当時のアメリカ映画「イージーライダー」もバイク好きに拍車をかけた。少なくとも15回以上観たな。ピーターフオンダと俺ではカッコ良さの点で余りに差がありすぎだが。しかしお気に入り映画3本の指に入る名作です。余談になったがMCCに入って最初の登攀は、大山、北壁別山だった。これは見かけは迫力あるが、岩登りというよりヤブ漕ぎだった。左の視界の隅にチラチラ見える大屏風岩が俺を呼んでるぜ!と思いながら登攀を終えた。そして1968年の秋、M戸氏と大屏風岩、港ルートに挑戦する事になった。
by kikunobu111 | 2008-03-07 13:46 | ・爺の登山小史
爺の登山小史 No17
国鉄出雲駅からバスで向かった先は、トンネルだった。昔、立久惠鉄道というのが走っていたが、当時すでに廃線になって、軌道跡とトンネルだけが残っていた。多くのトンネルは農家の倉庫代わり等に使われていたが、一部そのままになっているのもあり、そこに目をつけたのがMCC(松江クライマーズクラブ)だ。トンネルの天井裏にボルトを打てば、素晴らしい人工登攀ルートになる。と言う訳で暗いトンネルの中でボルト打ち作業が開始された。一本打つのに20~30分はかかる。これを20本くらい打ってトンネルの天井を出口に抜けるのだ。
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当時世界中の登山界は人工登攀が大はやりで、確か国内では谷川岳コップ状岩壁正面の初登攀争いで初めて埋め込みボルトが使用され、これを使えば不可能なルートは無くなっちまう。荒っぽい道具が登山界に持ち込まれたものだ。元々はアメリカ、ヨセミテの大岩壁エルカピタン、ノーズのウオーレン・ハーデイングによる初登や、フランスのドリユ西壁でギド・マニョーヌに使用されたのが最初だろう?当時もフリークライム派と人工派の間でかなりの葛藤があったらしい。結局フリーでどう頑張っても登れないブランクセクションに打つボルトはやむを得ないという事になったらしいが。当時はデイレッテイッシマという言葉も流行り、先鋭的?なクライマーは定規で引いた様な一直線のルートを作ったものだ。これもボルトがあったればこそ。アイガー北壁JE○○ルートなど典型的なものだ。しかし、次第に登山界にそのような行為に対し疑問を呈する人達が増え、現在では、そんなルートを登る者はいなくなって、ボルトも朽ち果てている。ちょっと下らぬ事を書き過ぎたが、そういう訳で田舎クライマー達も時代に後れてはならぬと、トンネル工事が始まったのだ。しかしMCCのメンバーが人工オンリーだった訳ではなくて、フリーで行ける所は出来るだけフリーで、人工でも出来るだけA0といって、アブミを使わない様、心がけていた。このおかげで、我々は人工登攀には、絶対の自信を付けた。後に穂高屏風岩東壁の緑ルート等のクライミング(当時の6級ルート)は楽勝だった。今では垂直のハイキングコースと揶揄されるル-トだが。
by kikunobu111 | 2008-01-28 18:06 | ・爺の登山小史
爺の登山小史 No16
1968年の春、松江市内で山道具を探して偶然入ったのが、竪町の「Mスポーツ」。店の奥から眼光鋭い青年が出てきた。敏捷そうな体躯。M戸氏だった。俺より2~3歳上か?話を聞くとバリバリのクライマーだ。大山の大屏風岩を、ロープも使わず単独で登ってると聞いてビックリ仰天!このど田舎、辺境の地にもこんな人がいるんだ。この日曜日に松江郊外、岩坂、切通しのゲレンデでクライミングをすると聞いて、俺は二つ返事で、参加を申し込んだ。その岩場は中学生の時、ハーケンを打って挑戦した事があったので知っていた。日曜の朝、岩場の下で4~5人の人達に、新人らしく挨拶をして仲間に入れて貰った。楽しいクライミングの一日が終わる頃には、俺は「松江クライマーズクラブ」のメンバーになっていた。次の週末は、出雲、知谷ゲレンデに行く事になった。神戸川の川岸に40mの高さで聳える岸壁らしい。嬉しくて、週末が待ち遠しかった。
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(左)岩坂切通しの岩場。(右)MCCの仲間、左がM戸氏。
by kikunobu111 | 2008-01-23 14:58 | ・爺の登山小史
爺の登山小史 No15
松江では、山仲間もいないし、やはり単独行だった。それまで県境の山々には、足を向けた事がなかった。理由は単純。アルピニズム的で無かったから。当時は花崗岩の岩壁と、氷河に削られた峡谷の無い山なんか山じゃないと思っていた。今は中国山地の山歩きは大好きだが、当時は山が頂上まで樹木に覆われているのが許せなかった。若気の至りと言うか、食わず嫌いと言うか。それでも雪に覆われた冬の中国山地なら多少許せるか?と言う事で、木次線のローカル列車で県境の山へ向かった。それも出来るだけ下調べをせずに、資料は5万分の1地形図のみで。船通山の時は、雪に埋もれた横田の町からテクテク歩いた。適当な雪尾根に取り付いて、稜線でビバーク。
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棺桶状の縦穴を作り、ツエルトを被せるだけのシンプルなシエルターだ。大雪でも降らない限り、快適な夜が過ごせた。寝袋は勿論夏用だが、若かったからか充分安眠できた。この調子で、猫山、比婆山連峰の縦走など、ワカンで歩き回ってた。冬の船上山から大山の縦走に挑戦した時は、勝田ガ山でビバーク。大休み峠でバテて、敗退。しかし一人では、好きな岩登りが出来ない。悶々としてる時に、ある出会いが訪れた。
by kikunobu111 | 2008-01-14 09:47 | ・爺の登山小史
爺の登山小史 No14
 単独で春の白峰三山縦走をしたのもこの頃だ。当時、日本の登山家では、加藤文太郎と松寿明を崇めてたので、当然、単独行が増えてきた。夜叉神峠を越えて池山吊尾根を登り、池山御池小屋に一泊、翌日は雪に覆われた北岳を踏んで、頂上小屋に泊まった。屋根まで雪に埋まった小屋の窓から入ったが中は真っ暗。当時も大きかった小屋の中は俺一人。二日間の行動で疲れてはいたが、暗闇の全身を締め付けるような恐怖感に、結局一睡も出来なかった。
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農鳥から大門沢を下って奈良田に着いたら、登山口で中年夫婦が話しかけてきた。この冬、息子が大門沢の下降中雪崩で行方不明になり、何か手がかりは無かったか?と聞かれた。
 住んでた三浦半島には、鷹取山という岩場(石切り場跡)があり、関東のクライマー達のゲレンデだった。ここで古川純一など当時のバリバリのクライマーにも会った。ボルダリングも盛んで、ルートの下部にいろんな課題があって、グレーデイングもされ、今と余り変わらない様な雰囲気だった。履物は皆、ズック靴だったが。
 上高地、小梨平で1ヶ月テント暮らしをした夏もあった。食料は、ごみダメを漁って、肉以外は何でも手に入り、俺のテントの周りは戦利品のダンボール箱で壁になっていた。難破船から持ち帰った品でテントの周りを囲んだロビンソンクルーソーの気分を味わった。時々先輩達が入山の折に泊まり、宿代代わりに肉を差し入れてくれた。素敵なホームレスライフだったな。おにぎりを作っては、岳沢の岩場や霞沢岳、錫杖岳と片っ端から登ってた。上高地を去る日、西穂稜線で雷が激しく鳴っていたが、その時、松本深志高校生が落雷で大遭難してたのは、山を下りてから知った。
★きりが無いので横浜編はこの位にして、次からは、いよいよ登山小史の松江編を開始します。(なじみの山、人が出てきますよ!乞うご期待。)
 
by kikunobu111 | 2008-01-03 14:37 | ・爺の登山小史
爺の登山小史 No13
1965年初冬の八ヶ岳、赤岳沢に行った時の話だ。何も無い荒涼とした風景の小海線、清里駅で降りる。沢に入ると雪渓がタップリ残って、二人パーテイは順調に滝を一つ一つ越えて行った。最期の難しい滝の下でアンザイレンし、俺がトップで登り、雪渓の中から突き出ていた大木にセルフビレイを取って、肩がらみで後続を確保した。彼は後2mという所でスリップし、宙に浮いた。緊張してロープを握り締める。肩がらみでは、上体が引き込まれるが、セルフビレイがしっかりしてるから、安心と思ったら、ロープを結んでいた大木は、単に雪渓に埋まっていただけで、生きた木じゃなかった。俺の体もパートナーと一緒に空中に浮かんでた。勿論、セルフビレイの倒木も道ずれに。
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気がついたら滝下の急な雪渓のクレバスに楔を打ち込んだ様に頭から刺さっていた。パートナーは足から刺さってたので、すぐ脱出し、俺の脚を引っ張るが抜けない。リュックの負い紐を切ってやっと脱出した。10m位落ちたのに二人とも怪我も無く一安心。しかし上手くクレバスに嵌らなかったら、急な雪渓を滑り落ちて、次の滝へダイビングしてただろう。夕闇が迫り、稜線は遠い。草付き斜面の座布団位のテラスに並んで腰掛け、体を付近の木に固定して夜を迎えた。夜中の寒さは尋常で無く、5分置きに時計を見ながら朝を待った。翌朝、コッヘルの水がガチガチに凍って、正面に真っ白い富士山を眺めながら最期の登りにかかる。
by kikunobu111 | 2007-12-31 11:01 | ・爺の登山小史
爺の登山小史 No12
この頃(昭和39~40年頃)の思い出に残る登山は、4月末、南アルプス「聖岳」~「荒川三山」の縦走だ。遠山川沿いのアプローチに丸一日かかり、二日目に聖小屋。ここで猛吹雪のため停滞。聖越えは雪庇に神経を尖らせた。
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後半天気は持ち直し、二軒小屋から、転付峠を越えて一週間の縦走を終えた。帰ってみたら、我々が聖岳で疲労凍死したとTVや新聞に出ていて、家族や学校は大騒ぎになっていた。(同年代の別グループが、あの猛吹雪の日に行動して、百間洞辺りで遭難したのが、間違われたのだ。)
 6月の谷川岳、一の倉沢では、アプローチの衝立岩テールリッジの逆層スラブで20mほど滑って、あわやヒョングリ滝転落寸前で停止。
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その後、南稜を登ってたら、目の前の4ルンゼで岩に挟まった2死体を救助隊が収容してた。やり方はいたってシンプルで、死体を蹴飛ばして落とすだけ。岩場を跳ね返りながらドスンドスンと落ちていく光景は、へー!?という感じだった。
by kikunobu111 | 2007-12-17 15:07 | ・爺の登山小史