爺の登山小史 No17
国鉄出雲駅からバスで向かった先は、トンネルだった。昔、立久惠鉄道というのが走っていたが、当時すでに廃線になって、軌道跡とトンネルだけが残っていた。多くのトンネルは農家の倉庫代わり等に使われていたが、一部そのままになっているのもあり、そこに目をつけたのがMCC(松江クライマーズクラブ)だ。トンネルの天井裏にボルトを打てば、素晴らしい人工登攀ルートになる。と言う訳で暗いトンネルの中でボルト打ち作業が開始された。一本打つのに20~30分はかかる。これを20本くらい打ってトンネルの天井を出口に抜けるのだ。
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当時世界中の登山界は人工登攀が大はやりで、確か国内では谷川岳コップ状岩壁正面の初登攀争いで初めて埋め込みボルトが使用され、これを使えば不可能なルートは無くなっちまう。荒っぽい道具が登山界に持ち込まれたものだ。元々はアメリカ、ヨセミテの大岩壁エルカピタン、ノーズのウオーレン・ハーデイングによる初登や、フランスのドリユ西壁でギド・マニョーヌに使用されたのが最初だろう?当時もフリークライム派と人工派の間でかなりの葛藤があったらしい。結局フリーでどう頑張っても登れないブランクセクションに打つボルトはやむを得ないという事になったらしいが。当時はデイレッテイッシマという言葉も流行り、先鋭的?なクライマーは定規で引いた様な一直線のルートを作ったものだ。これもボルトがあったればこそ。アイガー北壁JE○○ルートなど典型的なものだ。しかし、次第に登山界にそのような行為に対し疑問を呈する人達が増え、現在では、そんなルートを登る者はいなくなって、ボルトも朽ち果てている。ちょっと下らぬ事を書き過ぎたが、そういう訳で田舎クライマー達も時代に後れてはならぬと、トンネル工事が始まったのだ。しかしMCCのメンバーが人工オンリーだった訳ではなくて、フリーで行ける所は出来るだけフリーで、人工でも出来るだけA0といって、アブミを使わない様、心がけていた。このおかげで、我々は人工登攀には、絶対の自信を付けた。後に穂高屏風岩東壁の緑ルート等のクライミング(当時の6級ルート)は楽勝だった。今では垂直のハイキングコースと揶揄されるル-トだが。
by kikunobu111 | 2008-01-28 18:06 | ・爺の登山小史
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